常磐津三昧

常磐津とは 

 歌舞伎や日本舞踊に欠かせない、三味線伴奏の歌の一つです。

 と、言えば一番わかりやすいでしょう。歌舞伎の舞台や日本舞踊で後ろや舞台脇で、被毛線(真っ赤な布)の上に裃を付けて座っている、歌を歌う人と三味線を弾く人たちが演奏する邦楽のことです。その歴史は、1747年(延亨4年)に、初世常磐津文字太夫宇が創始しました。正確には江戸浄瑠璃の一派です。同じく江戸浄瑠璃の一派清元(きよもと)とともに歌舞伎と結びついて発展しました。 関西の義太夫節の影響も受け、清元は長唄よりも、歌より語りの要素(台詞)が強いのが特色。 曲は時代物、世話物、景事物(舞踊曲)から成り、時代物は重厚、世話物は艶麗かつ洒脱です。どちらも格調を重んじます。 又、セリフと語りのバランスは半々位で、ドラマ性がとても高いのも特色の一つ。 舞踊曲にはリズミカルな曲もあり、より情緒的です。 三味線は中棹を用い、歌を歌う太夫三人、三味線二人で演じられるのか標準的な編成。よく使われるのは、歌舞伎の中の所作(舞踊)や道行の場面。 聴きなれないと難しいかもしれませんが、歌舞伎を見るとき、歌詞などをしっていれば、なお一層芝居がわかり訳す成りますよ。

 これから、由貴大夫が、この常磐津の名曲などを、ご紹介しましょう。

 

師匠のいた町人形町、そして浅草の稽古場

 常磐津の稽古場は、浅草にありました。雷門を背に駒形橋の交差点の傍。毎週稽古場に通っていました。浅草は常磐津の芸を修行した場所なのです。師匠は、私の母の従妹、その母親、すなわち私の母の叔母も常磐津を修行し、芳町(人形町)で置屋をしていました。師匠はここで芸者さんだったのです。ちなみに、師匠の祖母、私の曽祖母も三吾(さんご)の名前で、常磐津を教えていたのです。

 私が幼いころの人形町の師匠の家は、明治座の目と鼻の先にある、黒板塀の粋な建物でした。まるで、お富さんの歌にあるような建物だったのです。が、もうその頃は置屋はやってませんでした。 ただ、格子戸をあけて玄関のわきに盛塩がしてあり、叔母さん(師匠の母)は、奥の間の神棚の下、長火鉢の前で、キセル片手にデンと構えていたことを思い出します。残念ながら、私が中学に上がるころ、師匠たちは中目黒のマンションに引っ越し、あとは大きなビルになってしまいました。 その後、師匠は浅草に移り、そこを稽古場にしていたのです。 幼いころに垣間見た人形町界隈。あのころは、まだ人力車が走ってました。観光用ではない、一人乗りのホンモノの人力車です。 芳町芸者もまだまだ健在、検番もありました。江戸の面影が残る、風情ある街だったのです。

常磐津文字由喜(七を三つ)

6歳6月6日 祖母二世常磐津三吾より常磐津浄瑠璃と三味線の稽古を始める。

15歳 日本橋音楽祭邦楽部門 1位入賞

昭和42年 16代家元 八世常磐津文字太夫に師事。素浄瑠璃の修行に入る。

昭和43年 常磐津文字由喜(七を三つ)を許される。

東京新聞主催 邦楽新人コンクール「廓(さと)の仇夢」(権八小紫)にて1位。

昭和45年 この年よりNHKラジオ「邦楽のひととき」に毎年出演。

  弟子を取り、常磐津の稽古を始める。

 

 平成 8年 国立劇場に於いて、「由喜(七を三つ)の会」演奏会を主催。

 平成12年 常磐津協会理事就任。

 平成17年 国立劇場に於いて、 二回目の「由喜(七を三つ)の会」演奏会を主催。

 平成30年 一月 惜しくも、病気悪化により、他界。 享年82歳。

(写真は、私が名取になった時の、披露宴会場(原宿南国酒家ロビー)にて、師匠と共に)

御名取式

平成9年(1998年)5月24日 めでたくお名前をいただくことになりました。これは、御名取式の時の写真です。この日は、家元のお宅で名取式を行い、その後、記念写真撮影、そして、披露宴が催されました。昔は披露宴は、料亭で行っていたという事ですが、最近は手軽に中華料理が主流のようで、この時も、原宿の南国酒家で行いました。この写真は家元のお宅で撮影した写真です。中央に家元文字太夫丈、隣に文字由喜(七が三つ)師匠。後方左に、東蔵さん、右に家元の息子さんです。息子さんは、まだ、初舞台を踏む前でしたが、特別にご参加していただきました。晴れの日のおめでたい一枚です。

 

 さて、ここまでが前置きです。これから、常磐津とはどんなものか、その魅力をお話ししていこうと思います。私が弟子入りしてから、お稽古で習った演目の内容をご紹介しましょう。そこで師匠のお名前のですが、文字由喜の「喜(よろこぶ)」は、何度も書いたように七が三つです。がパソコンにありません。いちいち説明するのも煩わしいので、これからは「文字由き」と、七が三つの「き」の字は、ひらがなで表記させていただきます。 したがって、由きの会、もひらがなとします。

 

そして、もう一つ、

師匠に弟子入りし、家元より由貴太夫というお名前はいただきましたが、常磐津を生業とするプロではありません。免許皆伝もいただいているので、指導はできるのですが、歌舞伎座の舞台で演じることはできません。あくまでも、常磐津を修行した者が、長い伝統ある常磐津を人々に知っていただきたいという思いから、常磐津を語っていきます。よろしく・・・。

 

まずは、口上から

「まずもって、いずれも様には、ご機嫌うるわしう、恐悦至極に存じあげ奉ります」この口舞台に入会しての初舞台でした。でも、常磐津の会でのことではありません。私が師匠に弟子入りする前のこと、「観翁会」でのことなのです。 「観翁会」とは、小山観翁先生の個人の会です。小山先生は歌舞伎を始め、古典芸能に造詣の深い方で、テレビなどでは、歌舞伎キャスターとして活躍されていました。あのイヤホンガイドの創設に携わり、皇室の方々の歌舞伎のご指南役もなさっていました。その先生が、歌舞伎の見方などを講義されるいわば勉強会が「観翁会」なのです。 毎週日曜日の午後、歌舞伎座の傍の会場で開かれていたのです。まず、師匠に誘われて「観翁会」に入会しました。この会には、由きの会の方々が大勢いらっしゃいました。 その観翁会の新年会が、深川の「みやこ」で開催され、由きの会で「乗合船」を出すこととなったのです。もちろん、私は弟子入りしてないので舞台をご一緒することができません。 そこで、口上を入れてはどうか、その口上役をしてはどうか、ということになり、あれよあれよという間に、口上役に決定してしまった、というわけです。 稽古場で、皆さんがいる中で、冒頭の口上を一声。「あんた、声出てるじゃない」と師匠におだてられてどうにか本番を迎えました。 「江久里さん、芝居心がおありですね!」と小山先生か大仰なお褒めの言葉もいただき、また、由きの会の先輩方々の甘い誘いもあって、ついにその年の春に由きの会に入会。 これまで親しんでいた叔母さんが師匠になったのです。それから長い長い常磐津の修行が始まったのでした。